昭和50年?月?日  NO.50-059-2 A面

                              明渡 孝
 御理解第??節『????』


 信心をさせて頂く目的は、あの世にも持って行かれ、この世にも残しておけるという程しのもの。それを頂くと云う事が信心の眼目であり、天地の親神様の氏子に対する願いなんです。
 「氏子信心しておかげを受けてくれ」と、例えばもうこの世に生を受けて、私どもがたまたまこの世に出て来たというのではなくて、もうそれこそ神様の一分一厘間違いのない計算の元に、私共はこの世に生を受けて、それを仏教的にいうならば、それこそ何百万年、または何千年分かりません。是はもう仏教的に説くならば、もうどれだけの年限を経てこの世に生を受けたか解らない位です。
 その間にはもうそれも仏教的にいうと、もうそれこそあの、ね、馬に生まれ変わったり、牛に生まれ変わったり場合には猫に、例えばあのお告げの中に、すくうあのしゃもじにまで生まれ変わると言われる位ですよね。あらゆる物に生まれ変わって生まれ変わってそして人間に、人間としてこの世に生を受けて、そして今度は生まれ変わらんですむ、永劫おかげの受けられる、いうならあの世にも持って行けこの世にも残しておけると云う物を頂いて、あの世にその御霊の安心の生活ができると云う事。そう言うおかげを頂いてくれと云う神様の願い。
 それになら一生をです、例えば五十年生きる、七十年八十年生きておっても、その事をその全然知りもせず感じもせずにね、ただ我情我欲だけで一生が終わった事と、又この氏子が何千年か解らんけれども、また難儀苦労せんならんと思うたら、神様のそれこそお心は、もうそれこそ暗く悲しい思いをなさることだろうと思う。
 信心しておってもただ「おかげおかげ」おかげを頂く為に信心がある様に思うておるのは、是はもう間違い。おかげというのはそういう、例えば信心の根本の所を解らせて頂く為に、神様がこう餌を与えて下さる様な物。ね。そこから例えば信心に食い付いて、本当の信心を解って、身にも心にもおかげを受け徳を受けて、そしてあの世にも持って行けれるといったような、神徳を受けることに本気にです。
 それを、なら言うとどう云う事かと言うと。この世に私どもは、愈々心を清めに来盗るんだと云う事になるんです。この世と云う事は、人間の心を清めに来る為に来とる。それに清める所か、もう汚れ果てて行く様な事ではね、ただ「おかげおかげ」に終始したんでは、神様の願いはね。
 こんな話をしておる時でしたよ、綾部さんとそこに高芝さんと二人で参って見えた。高芝さんはそこに道子さんがおりましたから、そこへやらせて頂いて、あのその話をさせて頂いた途端にそこのあのー控え室でね、それこそ控え室がバーンと弾き割れるような大きなお勇みがあったですよ。
 「この世には、もう確かに人間は魂を清めに来たとですよ」と言うた途端でした。そして今言うその、仏教的なその因縁の問題なんかに付いて話をしておる時でした、だからね私共がどうでも一つ矢張り、お徳を受ける為の信心をね、さして貰わんと。
 焦点をそれからと言うて、なら私共の日常茶飯事の中に、一事が万事にお取次ぎを頂いてお願いをして、そしておかげを受けて行くと同時に、その事を通してお徳を受けていくという、言うならば、頂き方をいっちょ身に付けませんとね。
 あの今久留米の今村さん達が、親子でああして毎日お参りになりますが、最近はあの、娘さんの勝子さんがね、神様から色々お知らせを頂く。しかもあのご心眼なんかでも、もうそれこそカラーで見事なね、色々なお知らせを頂く。もうご神夢が非常に的確頂きよった。
 この頃はもう、もう兎に角あのして、御理解を例えば頂きよってもまあ頂く。今日もあの、御理解を頂きながらあの、緋鯉をね鯉を頂いた。ちょうどその前にお母さんがあの、朝参りして見えておられるから、その事を「この頃かつこが、こんな風に色々お知らせを頂いてね」というそのをお届けしておられました。そのお届けがね、そのー沢山ミミズがおるげな。あのミミズがね。そがそのミミズが蛇に変わって行った所を頂いたとこういう。
 で私はあのーそのことに付いてお届けさして貰いおったが、それはあのーお徳を受けると云う事。例えばここでは、お徳のお知らせを川のもの。鯉はその最高のもの。鯉のお知らせは最高のご神徳のお知らせを頂く。だからそのご神徳を頂く為には餌が要る。所謂ミミズが要る。ね。ミミズの実体は蛇である。蛇と云う事は廻りである。その廻りのおかげでご神徳を受ける。
 して見るとそれは、廻りの為に難儀をしておるんですけれども、その難儀その物はだから「神愛」と云う事が解るでしょうが。ね。だからそのめぐりを、が、ならミミズをね、付けて徳をこうやって釣らせて貰う。徳を頂かして頂くものです。
 だからははあー今朝からお母さんがお届けしとった事と、その今また此処で鯉を頂いたというからね。だからあの、話した事でしたけれどもね。その鯉たい。その鯉ば頂かんならんたい。そればならただ頂くじゃできません。矢張りそれにはそれの、矢張りそのミミズならミミズが、餌がなからければその徳が受けられん。
 所が皆んながミミズは気色が悪かとか、蛇は嫌だとかと言うけれどもね、それを私は、言うならお徳を頂く一つの餌と思うてね、その鯉を釣り上げさして貰うおかげを頂かんならん、と言うて昨日話した事でしたけれどもね。私達は何と言うても、それぞれ何々かの問題を通して、あのーお徳を受けると云う事に焦点を置かなきゃいけないと云う事がね、解ります。是はもう私共が、あの世にも持って行けると云う事は、永劫助かると云う事です。永劫。ね。
 所がなら、私共がこの世で助かっとらんで、それこそもう心は汚れ果てたままもし行くとするならばです、ね。私はどう云う事になるだろうか。それこそ又何かそれこそね、もう何が何と言うてもしゃもじに生まれ変わるのが一番辛かっち。と誰かが言うたという話をね、昔私はばばから聞いた事がありますけれども。
 もう熱いそのお汁の中に何時も浸けられとる。それでこれが一番酷かと言うた様な事ですが。まあしゃもじなんかに生まれ変わると云う様な事は思いもされませんし、また、なら牛に生まれ変わるとか、馬に生まれ変わると云った様な事も、それは解りません。
 解りませんけれども、私共が永劫あちらで「安らぎの御霊」「喜びの御霊」としておかげを頂けれる為にもね。是は私共がどうでも本気で、ならお徳を頂けれるチャンスに恵まれ、しかもそう云う事をその気になれば教えて頂けれる教会にご神縁を頂いたと云う事をね、無にしてはいけないと思う。
 今朝から田中さん、そこの田中さんがお届けされますのに、昨日あの中村さんと一緒にお婆ちゃんとこのお見舞いにやらせて頂いた。そしたらもう本当にあの、もう以前からも綺麗じゃありなさったちゅう、それはきっとお世辞でしょうばってんね。(笑)もう兎に角綺麗になっておりなさるとにビックリしたとこう、私はまだ二十日間会うとらんから解らんです。
 解らんばってんね、例えばもう本当に段々お徳を受けて行ったら、綺麗にならなきゃならない筈です。それはもう死に顔なんかはね、お徳を受けて行くと云う事はもう、死に顔見りゃ解ると言われる位です。ですからそういう例えば不思議な働きと云う物があるんです。成程今朝方の御理解を頂いて下さって、ああ家のお婆ちゃんは、やっぱりお徳を持って行けれる人だなと云う風に思うんです。
 どうでも一つお徳をね、持って行けれるしかも子孫にも残る。今日はあの、そこの勿体島の重子さんが今朝参り一緒になさいます。原さんの姪子さん。今朝らからの御理解を頂いてから、私共が田主丸におる時にね、お話を聞いた事がありましたち。田主丸の湊町と云う所に、もう当時八十歳位になられるお爺さん。
 もう奥さんはもう二度目かでそれでももうやっぱり、まあ六十位のおばあさんと二人で、当時の椛目に参って来ましてね。そしてその、今当時の椛目ではたいへん人が助かるということで、その噂を聞いてね、椛目は何処じゃろうかちゅうたら、丁度もと軌道が停まりよった、ここに機関車が通っておりました。軌道が停まりよった、ほんなあそこの前の、もと店舗し御座ったとこ「はあーそんならあんた、あの麦生から行っちゃるとこじゃなかの」「あそこですよ」ち。
 したらそのお爺さんが言わっしゃった事がね、はあーあそこなら、子供さんか孫さんか知らんばってん、あそこ、そんなら助かる筈ばのっち仰った。と云う事を、その聞いたという話を今日は重子さんがして居られました。ね。
 それはね私くしもあの、その方のお取次ぎをさして頂いたんですけれども、作右衛門というのが私の曾叔父にあたる、全然知らないです。私が知ってるのは、作太郎というお爺さんがもうこれこそ、もう生仏さまの様な方でした。じょうぎょう寺の長い間は、門徒総代をしておりまして、もうそれっこそもうー仏教のあれに帰依し切ってるというですかね。生臭気をとりませんし、同時にあの池さらいがありましても、魚を沢山捕りますと、それをみんな放生しよりました。
 と云う様な人でしたから、あのーそのーお父さんの作右衛門と云う人がその、八十になるお爺さんが知っておられる。「はあー作右衛門さんの、いうならば曾孫にあたる人。そんならば助かるはずだ」と言う。
 だからそういう善根功徳というかね。それこそ生仏様じゃなかじゃろうかと言われる様な心の状態の人達が、私の先代先代また上にあってね、私のここに現われとると云う事から考えると、矢張りお徳と云う物があると云う事が解りますよね。
 だから残されると云う事が解りますよ。あの世にも勿論持って行ける。けれども、この世にも残しておけると云う物です。信心の眼目はもう是ですから。ね。おかげはずっと言うたら枝葉です。ね。
 けれども枝葉の方が主になって、そしてお徳を受けると云う事には疎かになっておる様な事では、折角信心頂いておっても、信心の値打ちがない。・・・・・・・・・(誰かがお届けをされた)・・・・・はいおかげを頂きました。